教養の新しい呼び方

●ブログの更新もなかなかままならなくなって久しいのですが、ひとまず、あけましておめでとうございます。
 新年の抱負としてはもうだいぶ遅いけれど、ずっと思っていることを少し。

●昨年よくヘイト・スピーチというのを目にして。これは要するに教養のない人たちが騒ぎを起こしているということなんだな。というのは判って、ではどうすべきか、ってところで、「しばき隊」のような活動をしている方々もいらして、これにはものすごく敬意を払うけども(※1)、対症療法と原因療法という考え方で行けば「しばき隊」は前者で、私に向いているのは後者のことを考えることかな、という自覚があるので、後者について書いてみる。

●ヘイト・スピーチのひとたちってのは、怖がりなんだろうと思う。何だか判らないものが怖い。だから攻撃する。
 だったら、「何だか判らないもの」を「判ること」にすれば怖くなくなる。
 いろいろ判っている、という状態をひとまず「教養」と呼ぶけれども、この「教養」という言葉、ヘイト・スピーチをするような人たちに向けるにはあまり分が良くない。「教養」だと、身につけるのに時間がかかりすぎて、そりゃ無理だ、ってとこで止まってしまう。
 と言うか、これを書いている私自身が「教養人」かと言えるかどうかで言えば、とてもそんなガラではないので、そこで話が止まる。この話をしづらいのにはそこもあるね(ある程度教養があればあるほど、自分のことを教養人とは恥ずかしくて言えないでしょう)。
 しかし、とりあえず「教養」と呼ぶしかないものを、多くの人々に伝えないと、ヘイト・スピーチみたいなものは減らせない。
 なので私、ずっと前から「『教養』の新しい呼び方を考えよう」と思っていて、しかしなかなか見つからない。元々ある言葉だと「世間知」とかあるし、クラブのDJをしてる頃には「ストリートワイズ」ってフレーズを思いついて、これはなかなかいいと思うんだけど、肝心の怖がりのヒトたちに伝わらない。それだと意味がない。
 何かあるかな。という問いかけともに、まずは新年を始めたいと思います。

(※1)久保憲司さんがサム・クックボブ・ディランのことを話の骨子にしながら、何故差別はいけないかについて語っている文をネットで読んで感銘を受けたのだが、今検索してもうまく見つからなかったので、ご存知の方はご教示を。