つながった表現世界

 小沢健二の『ひふみよ』ツアーに行って来た(5/25、中野サンプラザ)。素晴らしいライヴだったと思う。
 ここ五年くらいの間の小沢健二の文筆活動と、ポップ・スターとしての小沢健二の活動は、あまりつながっていなかったように私は捉えていたが、今回のライヴで初めてつながった形になった。そしてその接合した結果が素晴らしかった。

 いわゆる懐メロライヴみたいなことになったら一番つまらないなあ、と思っていた。私の友達の中には、小沢健二をトリビュートするイヴェントをやっている人たちもいて、そういうイヴェントに行くと、いい齢をしてベレー帽にボーダーのTシャツを着た皆さんが集まる中、延々と小沢健二の曲がかかり続けるわけだが、正直、前向きなものはあまり感じられなかった。お友達がやっていることなので、あまり悪く言うのは心苦しいけれど、別に彼らが後ろ向きという訳ではなくて、小沢がポップスらしいポップスをずっとやらなかったので、ファンの人はその時点で止まっているのも致し方ない。ということなのだろう。まあ、ノーナ・リーヴスとかクレイジーケンバンドとか、日本にも素晴らしいポップ・ミュージックは小沢不在の間にもいくつかあったので、ポップ・ミュージックを楽しみたければそっちを聴いた方がいいんじゃないか、とは思ったけれども。
 で、『うさぎ!』などのお話の多くは、表面的に見れば資本主義や消費社会への懐疑が描かれており、一方かつての小沢健二は、カローラ2とかプラダの靴が欲しいのなんて歌っていて、消費社会を満喫した上での表現と受け取るのがそれほど不自然ではないように思われるものだったから、そこを整合化する必要はなくはないだろう、と思っていた。単純化すると、「小沢さん、お金使うの楽しんでたのに、資本主義批判するのはおかしくない?」ってことだ。もちろん、ポップスなので矛盾していても別にいいのだが、そうは言っても、矛盾は正せるなら正した方がいい、と考えるのは、それほど間違ったことではないだろう。
 と言うか、「小沢健二の時代」を過ごして、今は40代になってしまった女の子たちとか、いっぱいいるわけだから。ちゃんと落とし前つけないとあの子たちかわいそうだぜ。って思わないではいられない。あの頃ポジティヴ・シンキングなんて流行って、まあミス・ミナコ・サイトウだと、今のとは違って可愛げがあると言うか見るからにインチキとか言うか(笑)、私はそんなに嫌いじゃなかったけれども。翻って現在は、昔で言うポジティヴ・シンキング的な言説に乗せられて前向きになってみたらやっぱダメだっていうんで、うつ病の病院が大流行りしていて、うつ病の美人医師が、可愛げのない今の「無駄に前向き志向」の親玉に「これ以上患者増やすのはやめてくれ」って言って、それがまたベストセラーになっているわけだから。
 かつてそういう時代に、前向きなヴァイブレーションを与えるヒット曲をたくさん作って、人々にそういうヴァイブを与えて、ある日忽然と消えたんだから。戻るに当たっては、かつてCDやライヴにお金払った人たちの多くを占める、あの「元オリーブ少女」みたいな人たちにも判るように伝えないと、倫理的にまずいんじゃないの? ということは素直に思った次第。

 で、実際どうだったか。
 今回のライヴでは、至るところにコラムの朗読が挟まれた。それは時に、ライヴとしてのグルーヴ感を中断するものでもあったけれども、あのライヴを見た人で、日本語が判る人なら、グルーヴが中断されるから邪魔、とはほとんど誰も思わなかっただろう。
 我々が持っている価値観をゼロベースで見直す観点でのコラムのあとに、それに関連する形で歌われるかつてのヒット曲は、懐メロではなくて新しい視点で響いた。殊に、「資本主義好きだったでしょう?」というツッコミを誘発する象徴である“カローラ2に乗って”の新提示は素晴らしかった。「そう言えば『財布ないのに気づいてそのままドライヴ』してたんだから、別にそんなにお金使うのが好きだったわけでもないよなあ」なんて。
 整合化がなされた上、表現としてより芳醇な膨らみを湛えることになったのだから。落とし前はちゃんとつけた、と言っていいように私は思った。

 新曲がいくつか歌われて、そのうちポップスのフォーマットの曲に関して言うと、かつてのヒット曲のような2-5-1でどんどん解決して行く進行のものではなく、あまりドミナントしないで淡々と続いて行く楽曲だった。旧曲とのバランスで言うと適切だったように思われるけれども、新曲単体で新しい価値観を強く発信しているようには思わなかったので(アルバムの中の一曲、という感じ)もし新しいレコーディング作品が出るなら、新曲でそこのところをきっちり提示してもらえると理想的だと思う。まあ、今の小沢健二が、ポップ・ミュージックの最前線に立つべきだとは思わないし、昔みたいにポップ・ミュージックってのは世の中で機能していない時代でもあるので、そこまでやらなくても、あのライヴで表現した世界観を適切に形にした録音作品が出ればそれだけで御の字だろう。そういう作品は出るのかな?

[付記]
 ライヴを見てからこのブログを書くまでに時間が空いたけれども、その理由はアフリカ関連の書籍をもう少し読んでから書こうと思ったら、図書館で予約待ちになってしまったから。
 小沢健二南アフリカに四ヶ月ほど滞在し、その体験で思ったことをオフィシャル・サイトに書いている。その部分は、今回のライヴで表現されたものを理解する上でも重要だと思われたので、最低限の知識を把握した上で何か書こうと思ったのである。
 読まないままひとまず見切り発車でこの文を書いてみるが(読んだらまた触れます)、書籍名を挙げて置くので、お詳しい方は、私の文に補完情報を追加していただけると幸いだ。

●『アフリカ――動きだす9億人市場』ヴィジャイ・マハジャン
 これは私がアフリカについて興味を持つきっかけになった本。アフリカの飢餓や貧困についての言説はたくさん目にするけれども、希望を語るものはそれほどないように思う。
●『民主主義がアフリカ経済を殺す』ポール・コリアー
 今読書中。希望について読んだあとは、やはりそうでない視点の言説も見て相互補完するべきだと思ったので読んでいるところ。
●『アフリカを食い荒らす中国』セルジュ・ミッシェル他
 これが6/13現在、私の住む町の図書館の予約待ち43番目なのでなかなか読めそうにない。この辺りまで読んでから、現在のアフリカについて思うところを改めて書こうと思う。

 音楽家としての小沢健二のインタヴューを読みたいとはそんなに思わないが(ここまで書いて来たように、ライヴを見て十分に判ったので)小沢がアフリカについて考えていることや実際に現地で見て来たことについてのインタヴューはぜひ読みたいので、そこのテーマ限定で、どこかで取材してもらえないだろうか。『ひふみよ』サイトでもかなり語られているけれども、ここはもっと掘り下げて欲しい部分だ。
 私のように無学な者でも、いつも新聞を見ていればBOPとかいう言葉は自然に覚えたりして、それが今の世界を理解する上で大事なことなのは判るけれども、実際に現地に行くのはさすがに難しい。そして、小沢健二の影響がなければ、アフリカには新聞で読む以上の興味をそれほど持たなかったように思う。
 これだけでも、彼の表現世界は人の心を動かしている、という実例だと思うので付記させていただいた。ぜひまた活発に、公的な表現活動をなさって欲しいと思う。